2002年10月27日 関が原の戦い(その1)
橋本 雅晶 2003/11/02 (日) 14:11 [No.403] 返信(引用して返信)
ベルリンの壁崩壊のように超ド派手なパフォーマンスがあったときは別として、歴史の転換点となるような
決定的瞬間には当事者も含め、誰もがその歴史的重みを認識できないことがよくあるものです。
後世の歴史家が「あれが歴史の転換点だった。」と述懐することになるわけですが、
昨年の衆議院補欠選挙が福岡6区における荒巻王国樹立の、いや、日本の政治の転換点であって欲しい
と思い、寄稿しました。
昨年の補欠選挙は勝ち目の無い厳しい戦いと思っていましたが、全市町村制覇というおまけつきの
まさかの大勝利を勝利の女神がもたらしてくれました。
一度きりの勝利では無く持続的に毎回当選を重ね、荒巻先生には成長を遂げていただき、
やがては大臣、派閥の領袖(派閥の存続の是非は別にして)、
あわよくば内閣総理大臣を目指していただき、故郷に錦を飾っていただきたいと思います。
久留米地区選出の国会議員は、楢橋進氏・古賀正浩氏と、優秀ながらも残念ながら健康に恵まれず
十分な議員活動ができませんでした。
年齢ではなく当選回数とそれに見合った実力ががものを言うこの世界。(大橋巨泉には理解不能)
荒巻先生に6区の将来を託したいのです。
| 今回の組閣において安陪氏が異例の若さと閣僚経験の浅さで自民党幹事長に抜擢され世間の注目を 集めましたが、歴代の幹事長に目を通しますと、若くして幹事長に就任した政治家は一人を除いて 全員自民党総裁に就任していました。唯一の例外が旧自由党党首の小沢一郎氏です。 即ち、若く優秀で強運の持ち主には人々のリーダーとなるべき運命的使命が待ち受けているのです。 30歳で衆議院補欠選挙に立候補し見事当選された荒巻先生の将来に皆が期待を寄せているのです。 武村氏・細川氏のように地方における一国一城の主を経て国会議員になった例は別として、 竹下・小泉のように実力のある政治家は皆若くして国会に初登庁し地元や先輩議員から育てられ 最後は一花咲かせたのです。 昨年は頼りないと言われた荒巻先生ですが、心の準備もできていなかったことでしょうし 仕方が無かったと思います。しかしそれでも勝利したのです。 そして荒巻先生はこの1年で大きく成長されたと先日の政策説明会で実感しました。 荒巻先生は20年後・30年後には日本の政界を担う中心的な政治家に成長してあることでしょう。 それとも6区選出の代議士は日替わりランチのメニューのように 毎回コロコロと変わるべきなのでしょうか。 |
| さて、後世の有権者ならびに政治評論家を以ってして昨年の衆議院補欠選挙が福岡6区における 天下分け目の決戦であったと言わせしめるための必要条件として(必要十分条件ではありません) 今回の選挙に絶対に勝利し、6区に確固たる地盤を確立しなければなりません。 願わくば少し余裕を持って勝たせていただければ、次回の選挙対策やあいさつ回りなど、 煩わしい雑事に追い回されることなく、政治活動や地元への予算獲得等の本業に 専念できるわけでして、基礎票に浮動票の更なる上積みを期待したいところです。 気が早い話ですが、20年後の選挙では地元6区にほとんど帰ることなく他候補の応援演説で 全国を行脚しまくってください。 |
| 霧が晴れた朝8時、数量に勝る西軍は鶴翼の陣に構え(東軍を取り囲み)戦いは勃発しました。 東軍の善戦により局面は一進一退を繰り返した正午ごろ、日和見をしていた小早川秀秋が松尾山を 駆け下り東軍の大谷隊に交戦。突然のネガティヴサプライズにより東軍の寝返りが相次ぎ 3時間後に戦いは終結しました。これを後の世で「天下分け目の決戦」と称するのです。 しかしこの時の世間のコンセンサスとして誰が徳川幕府の誕生に思いを巡らせたでしょうか。 信長亡き後に部下同士による主導権争いが、秀吉対光秀(山崎の戦い)、秀吉対柴田勝家 (しずが岳の戦い)で起こったように、人望がない石田光成と新興勢力の家康といった、 秀吉の家臣たちの内輪もめとしか映らなかったでしょう。 難攻不落の大阪城には淀殿が8歳の秀頼を擁して全国の家臣たちが忠誠を誓っており 豊臣家の基盤は磐石でした。 その証拠に全国では築城ラッシュで家康との最終戦争に備えようとしました。 1607年完成の熊本城にいたっては逃げ落ちた秀頼公をかくまう秘密地下トンネル付の部屋まで 作られています。 つまり戦争慣れした当時の人たちにとって、関が原の戦いはあまたの戦いのうちのひとつにしか 過ぎなかったのです。(続く) |
| 関が原の後は1614年と1615年の大阪冬の陣・夏の陣となるわけですが、 真田幸村の電撃攻撃により家康はあわや自決の大ピンチを迎えました。 結局大阪城は炎上し徳川幕府の誕生となりましたが、幕府誕生前後のプロセスにおいて 天下分け目の決戦の後に軍事・外交・経済・その他のとても書きつくせない血の滲むような努力があって 初めて1600年が「天下分け目」足りうるのです。 昨年の補欠選挙を天下分け目の決戦であったとするために今回の選挙は絶対に落とせません。 |