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小郡市 丸山 泉
医療サービスという言葉ほどあいまいなものはないだろう。人間を「人体」としてでなく「生活する個人」と考えれば、入院医療においても、そこには入院前から続いている患者さんの一日の生活がある。その食事、入浴、排泄などのすべてを総括して「医療」を構築すべきなのであるが、現実には昨今の高齢化社会とともに医療、看護、介護、そして患者をとりまく生活サービス、アメニティそれぞれを分けて考える様になっている。「全人的医療」といかに叫べども今後も医療行為と、その周辺のその他は確実に分離されていくであろう。(見方を変えれば、少なくとも医療だけは受益者負担という言葉に流されることがないようにすべきということかもしれないが。)
では医療以外の介護サービス、あるいは漠然とアメニティという言葉で表現されている生活の快適性などにこれからどこまでの競争原理が持ち込まれるのであろうか。また、標準レベルはどこにあるのであろうか。
まったく自由な競争が始まる前にいくつか解決せねばならぬ問題点がある。都市部と郊外そして過疎地など条件の異なる施設におけるサービス標準の問題、国公立病院と民間病院の混在の現実、医療に用いられる原資の問題などである。自由主義経済下の我々は、もはや自国のみの個性的な道を歩むことは困難となっている。現状の医療システムに内在する矛盾を早期に解決しておかねば、他の業種と同じように世界的な経済の波に飲み込まれてしまうに違いない。例えば、現在の米国の医療の現状を是とするか非とするかは正確な情報分析が必要であろうが、少なくとも貧富の差が一個人へ影響を及ぼす力については比較するまでもないと考える。
これまで、日本では官民医療施設の絶妙なバランス感覚で、その守備範囲を暗黙の中に了解してきたのであるが、近い将来このようなあいまいなバランスは完全に否定されるだろう。
アメニティやいろいろなサービスを論じる時、そして受益者負担という言葉を発する時、その基本部分でのコントロールのしっかりとしたシステムを作り、我が国の持つ独自性について理論武装しておかないと、米国に追随している日本の経済システムの中では、医療においても、資本介入の在り方がドラマティックに変わって来るだろう。医療の分野だけが経済社会の大きなうねりの中で不変であるはずがない。
高齢者が許容されるコストの範囲内で安心な生活を送る環境づくりが必要である。そして、地域においても利便性が公平に確保されなければならない。国公立病院と民間病院の混在も早期にその守備範囲を納得出来る絵図にしておかなければならない。また、一民間病院が一国立病院と同じレベルのアメニティを確保するためにどのようなリスクを背負わなければならぬのかは論を持たない。もし民においても、そのアメニティ改善の原資を多数の第三者からあつめることができたにせよ、個人にかかるリスクは避けられないだろう。また、長期的な視点で計画されなければならぬことも、民間病院においては、早急にせまられる回収によって実に短期的な計画しか出来なくなっている。
このような問題に対して将来的なスキームをつくることなしに、アメニティ等の問題が医師会とは別のパワーによって先行しているのが現実である。くり返すならば、アンタッチャブルの部分としての「医療」は国民が公平に得られる部分として今からもそうでなければならないと思う。しかし財源論議の結果それ以外のサービス部分が医療保険から分離され、いやおうなしに受益者負担という言葉で、そこに競争原理が持ち込まれはじめている。それもミニマムギャランティがきちんとしているならばやむをえないが、このままあいまいに進めていけば、これらの問題点にきちんとした方向性を決めておかない限り、すぐにも医療界にも弱肉強食という淘汰社会がやってくるだろう。(すでにやって来ているかもしれぬ。)
日本の基本医療を支えている大部分が診療所を含む民間医療機関であることをふまえての、マクロの視点からの医師会内のアメニティ論議が欲しいのである。サービスと言う美名のもとでの無制限の商業化であってはならないと考える。また、アメニティ競争を是とするなら、フェア−な環境でやりたいものである。
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