「夏の山女に魅せられて」

小郡市 福冨 稔明

 渓流沿いの道路からいつもの杣道を探して木の枝につかまりながら50メートルも降りると、そこは清流である。その昔、平家の落人が移り住んだという椎葉の尾前川である。熊本県の緑川の支流内大臣川沿いに林道を登りつめると椎矢峠にたどり着く。舗装のない荒れ果てた道である車のライトの前を狸や野うさぎ、テンが時々走る。その峠の漆黒の闇を抜けると尾前川の源流が始まる。深夜2時家を出て高速道を走り松橋インターで降り、矢部町を抜けて内大臣の深い闇を通る、これがいつもの儀式である。こちら側の世界から、私の疲れた魂の帰る在処、そこに辿り着くには闇の世界を抜けて来ることが必要なのだ。
 そこは水の音と風の通る気配と広葉樹の緑と鳥の声の世界だ。ようやく足元が見えるぐらいになると、私は沢を登り始め、川の源流域をめざす。沢の流れは激しく変化する。ゆるい流れは急に大きな淵になって空は木々に塞がれ暗い世界となる。淵に落ちる水音は眼前の滝から発せられる。淵をへつり、滝を巻いてよじ登り、つぎの釣り場へと移動する。川の源流域に棲む山女と釣り人のかけひきは山奥で静かに音もなく繰り広げられる。私はそっと竿を出す。山女は人の姿に敏感である。私は広葉樹従を通り抜ける風に同化する。私は大きな岩の陰にかくれて、そおっと、エサを流れの中に入れる。釣り人は流れるエサのわずかな異常に緊張し続ける。その一瞬のアタリに、いつものように反射的に軽く竿を立てる。流れの中で姿さえ見えなかった山女の姿が突然現れてくる。私の手の中には白いワンピースに水玉のパーマークをあしらった彼女がいる。釣る者と釣られる者。この瞬間、世界は私たちだけなのだ。
 何時の頃からか私はこの山里に来るようになった。山里は自然のままではない、山里の人の手入れにより、人と森と川と生き物の共存の世界である。年経た古木も、幹をつつく鳥も、淵に潜む尺山女も、そして山里にすむ人たちも、同じ時空の中で流転しているのである。山里に来て川と森とそして村の人たちと共に居るとき、私はいつも癒されている。
 それは何故か。私たちが進歩だと教わった近代化された社会、知性という論理性で作り上げた明るみの広い世界は、ヴァーチャル・リアリティーの世界ではないのか。広い世界とは深い世界なのだろうかと、いま私は問い返す。私たちは広い世界に目を奪われて、深い世界を失ったのではなかったのかと。私は知性という明るみの世界に疲れているのではないか。知性という論理性の世界に。
 近代化された社会で知性に圧迫されつづけた魂が、山里にある根源的なものを説明しようとするとき虚しさがつきまとう。山里は、論理性を超越した、全てのものが相互性をもちながら存在する時空なのである。知性だけでは到達できないような。
 今年の夏も私はあの山里の森や川や村の人々に会いに行くだろう。そしてとりわけ源流の彼女に。