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丸山 泉(三井)
今まさに我が国の医療はめまぐるしく変化している.特に在宅医療はこれまでの施設収容型中心の医療への反省と医療経済学的な視点から制度面の創成期にある.数年前からの訪問着護ステーションの運営,訪問リハビリ,在宅酸素療法などの経験から,在宅医療を単なる技術的側面からのみではなく,その前に,今からの社会の在り方ひいては,家族そのものの在り方までも考える必要があると実感し,思い付くままに意見を述べて見ようと思う.
1.在宅医療にかかるコストについてのコンセンサスづくりが必要である.
戦後の混乱の中から再建をめざしてきた我々はGNP大国となった.戦後民主主義はイデオロギーの波にもまれ,健全な市民参加の民主主義の発展を遅れさせた様に思う.また,長期安定政権は経済発展をもたらしたが,一強の力学の中で,実論と空論の構図を生みだし市民の政治参加に村する手応えをなくし,民主主義の最も大切なプロセスであるディスカッションやディベーティングをむなしくしてしまった.医療福祉の分野でも,一票の論理は当然かかるはずのコスト論議を避けることで,最大公約数的な国民の要望に答えるため,負担なくして得られる福祉医療を求める無責任な大多数を生みだした様に思う.今,相変らず政治不信が続いている事は,ますます市民の発言の現実性をなくし,突出した意見だけが正論のようにもてはやされている.だが,これまでの我々医師の政治へのアプローチの仕方にも誤りはなかったのだろうか,先見性に乏しかったのではないだろうか.ともあれ最近になり,享受する医療福祉へも応分の負担が必要であるという考えが少なからず浸透してきたのは喜ばしい限りである.
2.在宅医療を進める結果として,婦人や弱者の犠牲があってはならない.
私の開業する所は田園地帯で農村型である.十数年の開業経験であるが,高齢者や障害者の医療の現場の数多くの事例の中で家庭内の主婦の犠牲を目のあたりにしてきた.社会的入院は認められていないにもかかわらず,入院相談に来られた家族の中には,ぎりぎりまで在宅介護を頑張った挙げ句に,精神的にも肉体的にも限界となり「これ以上お世話できません.本音を言えばもう亡くなって欲しい」などと寂しい言葉を耳にすることも一度や二度ではない.在宅医療においても,医療が自宅にづかづかと入って来ることにより,ますます緊張をしいられ,あるいは専門家の指導という名でのちょっとした言葉に気づかいをしなくてはならなくなるのではないだろうか.家族の枠組みの中で,あるいは社会の枠組みの中で,主婦の仕事への正当な理解がなされなければ在宅という名のもとにますますの犠牲を強いるのではないだろうか.
3.家庭まで医療の手が伸びることによって,個人のプライバシーがおかされてはならない.
最近医療福祉をめぐる情報ネットワークづくりがさかんだ.例えば脳卒中患者情報提供書なるものが保健所から送られて来る.これに名前を書く時に,何でここまで保健所がしなくてはならないのかと疑問に思う.個人と医療機関の健全な在り方を構築出来れば,不必要な物に思えて仕方がない.どの家にどんな病気の人が何人いるかが,インフォームドコンセントなしにいつも誰かに覗かれている社会は気味の悪いものだ.このような事が広がり,次には糖尿病の,そして肝炎の,ひいてはAIDSの情報が本人の知らぬ間に保健所とか医療機関の間でやりとりされる事を想像すると恐ろしい物を感じる.遺伝的要因や感染的な要因から新たな現代社会の人権問題を発生させるのではないだろうか.在宅医療を実行する我々は行政に対してもあるいは診診連携,病診連携の場においても「守秘義務」という言葉の意味をもう一度考える必要がある.在宅医療は合意に基づいた個人と医療機関の健全な関係の上に築かれるべきだと思う.
4.在宅医療こそが良いもので,在宅療養を当然すべきものという考え方が,押しつけ医療,管理医療の強化になってはならない.
我々はよく医療のパイの分配という言葉を使う.厳しい医療界の現実は周知の通りで,新しいパイの開発がなければ専門性を維持して行く希望はない.しかし,同時にパイはそれぞれの個人史を背負った者の集合体であることを忘れてはならないと思う.官僚が全体主義的な発想になるのもやむを得ないし,国や県市町村という組織の運営のためには理解出来るものではある.しかし,我々は違う.我々医師は個人史を持つ一人一人とのインターフェイスに位置している.全体主義な考え方になりがちな官僚的発想や機構に対して,個人の立場を守っていく事が取るべき立場ではないだろうか.管理医療のシステムの中に容易に組み入られないようにすべきではないだろうか.官僚の喜びは組織の健全な維持発展,我々の喜びは,我々が得る個人からの感謝の気持ちや,うれし涙や,笑い声なのだから当然の事なのかもしれない.戦後の医療改革の辿ってきた道の節々で,線引き的な割り切り方が行われてきた事は,今までは仕方がなかったかもしれないが,我々はあくまで患者個人の保護者であるという立場を貫くべきではないだろうか.それこそが良質で合理的で自己矛盾のない医療システムを作る力になるだろう.過剰に保護された制度に進化はない.
5.在宅医療に十分なフレキシビリティーをそなえる事が必要だ.
在宅医療が保険制度をはじめいろいろな制度の中で運営されるのは当然だ.しかし,戦後50年間の医療の変革を省みてみると,一度動きだした制度は柔軟性に欠けるものになってしまう.現代社会はこれから環境と健康と人権の問題を主軸として加速度的に変化して行くと考えられる.在宅医療も先に述べたように家庭婦人の労働に対する正当な評価や,環境や健康の維持への必要なコストの合意とともに発展して行くだろう.今から我々が在宅医療の経験の中で得た改革すべき所は,意見を組織的に集約し行政に粘り強く働きかける力をもつ事が必要と思う.往診の形態一つにしても,ほんのつい最近まで自転車からスクーターそして自動車に変わっただけで,我々の父親の世代とほぼ変わらぬ内容であるのは自己改革を怠った我々にも責任があるのではないだろうか.
6.尊厳死に対する考え方が,不用意に拡大解釈され,在宅医療が見放し医療になってはならない.
今日もある会合で「年をとったらもう医療はしてもらわなくてよい.年寄りは何もしないのが一番」という会話を耳にした.聞くたびに昭和50年代から我々がやってきた老人医療に村する反省を禁じ得ない.私の病院でも昭和56,7年頃にはたくさんの患者さんが点滴を受けひたすら延命に努めた時期があった.大学での臨床研修においてもただただ延命を目的としていたのが現実であるから,そのような教育の中で育った者としてはじめの頃は疑いも持たずに頑張ったものだった.しかし,いわゆるスパゲッティー症候群などへの反省,MRSAや緑膿菌による院内感染の問題,尊厳死などの患者側の意識の変化や,医療従事者自身の意識の改革により,いかにして薬づけ検査づけと批判されずに診療レベルを落とさず適正医療に努めるかが努力されてきた.そして今,制度的にも介護力強化病棟,療養型病床群を有するケアミックスが可能になり,病棟内薬剤師指導制度などが認められ,現在はこの制度をいかに健全に運営していくかの段階である.このような事を述べたのは戦後の一時期の老人医療の反省から,またその強いイメージから,前述した会話が正確な現状認識なしに語られているのではないかと考えるからだ.今求められているのは老人においては急性期,慢性期に応じて医療施設を適正に選択することで,その一つの選択肢として在宅医療があるからだ.はじめに在宅医療ありきでは決してない.在宅医療はベターなものであることは確かだが,それが見放し医療になってはならない.我々医師が現在の種々の医療の選択肢に精通し医療制度を理解し,市民へ適切な情報を発信することが必要だと思う.
7.医療の選択は,あくまで患者あるいは患者の意を介した人々の判断によらなくてはならない.
今まで主張してきた事はこのことに尽きると思う.最近他の病院の外来に通っていた患者さんが,そこに言語治療の専門家がいないため通院の希望で受診して来た.その病院がかかりつけ医であったので,「今後も言語治療以外はその先生にかかり続けなさい」と話し,その病院の院長に電話し「言語治療だけ当院でやります.内服薬などはそちらで続けてもらえませんか」と話した所,多分その患者さんが勝手に相談に来られた辛が不愉快だったのだろう,「もう来なくていいと言って下さい」.「もうその患者はいりません」との返事だった.私も一生懸命診てきた患者さんが同じ様な事をして同様に腹を立てた事がある.だから良く理解できるのだが,これには二つの問題が含まれていると思う.一つは患者には自由に医療機関を選択出来ると言う当然の事への無理解,もう一つは長期間携わってきたからと言って、それだけで患者は自分の所有のパイではないということだ.色々な業種を見渡した場合,例えばレストランを考えてみれば,今まで通ってきてくれたお客が近くのレストランに行く様になったからといって,一々お客を恨んでいたら仕事にならない.その店なりの味や値段の研究をしてまた来てもらうようにするしかないではないか.
もしこのような事が医療界特有の事であるとするならば,医療界の質の改善は悲劇的と言わなければならない.すなわち,在宅医療においても我々がそのパイに対して主導権を持ち続けようと思うならば,我々の意識改革も平行してなされるべきで,診診連携や病診連携などの施設間連携がスムーズに行われる様になってこそ始めて在宅医療が発展して行くのではないだろうか.在宅医療を自分自身の患者の確保と言う考えでなく,もっと高次元からの患者のパイの開発と考えなければならない.そしてあくまで患者自身に選択性を持たせ,患者の個人史のタイトな共有者として,制度に埋没しないでその人格を守り通す事だと思う.
若干の経験から感じた事を勝手に述べてみた.在宅医療の益々の発展が仕事の中での大きな手応えになることを願うものだ
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