介 護 保 険 に 思 う

丸 山  泉 (小郡)

 介護保険はすでに実施段階に入った.周知のとおり平成12年からスタートする介護保険制度は,実質的には各市長村のレベルでのモデル事業,実態調査など,問題を残しながらも一応の形をつくり,すでに実質的な活動が始まっている.しかし,介護支援専門員受験に対する異常なほどの熱気とはことなり,介護保険に対する現場での議論は不足したまま,まるで制御の効かないロポット軍団のように歩きはじめているというのが現状であろう.聞くところによると,特に福岡県では介護支援専門員の受験者数にも表れている通り,加熱といっていいほどの関心の高さである.果たして医師の受験がどの位のものかは分からないが,このあわて様,このありさまは目下の医師会の状況を如実に表しているのではないかと思う.もちろん残念ながら私もその中の一人である.あきらめとも喪失感とも思える行動パターンを見せる組織に落ち着いたクリエイティブな議論とその果実を期待することは今後も無理なのではないかと思う.戦後最大ともいえる大きなうねりの中で,せめてゴルフに行くのを2〜3回止めてでも地域医師会レベルでの活発な論議と問題提起があってしかるべきではなかったのだろうか.(最近,この危急存亡の時に,ゴルフ大会への参加と経済的支援をもっとというおふれが私の所属医師会に回ってきて驚いている)でも,もう済んだことは仕方がない,これからのことに目を向けよう.今,地域では作成委員会の人選はすでに終わり,最後のモデル事業にむけて認定審査会のメンバーなども決まりつつある.しかし,まだ遅くはない.開始に向けて,各論の部分ではまだ煮つまっていないところがたくさんある.また,最後のモデル事業を実施して行く中で,今後の見直しに向けて現場の意思を明確にしておかねばならないところもたくさん出てくるはずである.ともすれば,今まで中央からの上意下達が大であったが,これからは地域の生の声が現場の実態として力を持つはずである.
 では介護保険制度にはどのような問題があるのだろうか.ここでは介護の現場に多少とも携わってきた者の目で介護保険を考えてみたい.確かに今回の過去数年間の経過を振り返ってみると,介護保険に対する十分な議論や批判は地域医師会ではなかなか困難であった.批判より現実の進行の方が早く,あれよあれよという間にことごとく決定され,その後はあふれんばかりの本制度に関する官民の情報の整理に追われ,目下の対応が先行せざるを得なかった.待ったなしの厚生行政のみならず,経済的にも日本が根底からゆすぶられている現在,これに乗じて十分な医師会内での議論もないまま,ちょうど銀行への公的資金導入のように介護保険制度は既定の路線としてつき進んでいる.では医師として,内科医としてこの介護保険制度からどのような問題をつきつけられているのだろうか.自分には関係がない,今度も今まで同様,これまで大方うまくいったのだから大丈夫.優秀な官僚機構が働き何とかなるだろう,どうせわれわれが何か言っても変わりやしない,という気持ちになっていないだろうか.また,少し言い過ぎかもしれないが,空腹の時に目前にあんぱんがぶらさがっているとつい食いついてしまう様に,本質の議論を忘れ,毎度のことであるが,いわゆる「御上」に巧妙なインセンティブを与えられ,この間題の本質の議論を避けてきたのではないだろうか.具体的な制度上の問題としては,@要介護認定においての試行期間が短かったこと.A介護保険の前提となる基盤整備が十分でないというより,地域によってはほとんどできていない現実.B現行制度と介護保険とのかかわりの中でオーバーラップした部分にまだ交通整理が必要なものが多いこと.C介護保険ばかりが注視され要介護者以外の高齢者への対応が軽視されてはいないかと思われること.D政治的に決着したと思われる介護支援専門員の資格について,このままの専門員のあり方で公平性の確保が現状の制度で可能なのだろうかという疑問.E介護保険と障害者福祉との関係について,人的にも財政的にも介護保険重視のため障害者の生活保障や福祉サービスが軽視されないだろうかという懸念,などなどである.
 しかし医師としての本当の問題は別のところにあるのではないだろうか.これらの制度上の問題は今後十分に解決可能なことで実はさほどの問題ではないかもしれない.問題は,今回の介護保険成立の過程で露呈した医師会や内科医会のまとまりの悪さ,共通認識をつくろうとする努力の不足,先見性のなさ,ひいてはパワーのなさである.数人の問題意識を持ったリーダーや会員がいても全体は眠れるアザラシの様に動こうとしない(あえて獅子とは言わない).問題は実はここにあるのではないだろうか.そしてそれは致命的ともいえる欠陥である.これまで組織としてあまりにも即物的な対応しかしてこなかったことによる結果とはいえ,今は個人としての無力感でいっぱいである.
 医師の問題としての介護保険の中身にもどろう.よく今回の介護保険制度の問題として医師の主導権が失われたといわれるが,そうは思わない.そもそも医師によりすべてを管理可能かどうか考えれば,この複雑化した日本でとうていできるはずがない.ただ,医師とは何か,その守備範囲がなへんにあるかの徹底した議論が時間の不足と,即物的な個々の判断の積分としての現状のビヘイバーとなっているために,全体的としての自信喪失につながってこの様なあせりとも見える考えとなっているのだろうと考えている.専門性さえ明確なら主導性は確保できる.具体的な介護保険制度の関わりについては医師は一点に力を集中すべきだと考える.これは「かかりつけ医の意見書」の一点である.ただ,「かかりつけ医の意見書」は,いかにも医師の存在を重要視しているようであるが,この「かかりつけ」の一言が医師会に今後相当の混乱をもたらす可能性は否定できない.かかりつけとは何かその議論がなされぬまま,単純に診療所と病院との患者のパイの奪い合いの解決策のキーワードと考えているなら認識不足もはなはだしい.かかりつけ医という言葉のバックグラウンドとしての医学教育を受けてきたといえる人が果たして何人いるだろうか.かかりつけの一語をきわめて合理的であるべき制度の中で唐突に使用する前に,各医師会員に個別にその意味を尋ねてみたいものである.ここではこれ以上このことには触れないでおこう.それがかかりつけであろうとただの医師の意見書であろうと,介護保険制度でわれわれに与えられた唯一の力学的接点であることに間違いはないのであるから.とにかく本制度についてこれまで知り得た範囲では,かかりつけ医の意見書以外に医師の責任を果たすことはできないと考えられる.それならばむしろ十分な意見書がないかぎり前へ進めないシステムづくりが必要だろう.そしてそれは決して黄昏時を迎えた医師の存在のむなしいアピールのためではなく,高齢者の健康を自信をもって一番理解している者としての積極的な参加が前提である.意見書をもっと専門的なフォームに変えることも必要であろう.もちろんそのためには医師側の高齢者や介護への認識を高めなくてはならない.医師の専門性を凝集したものにしなくてはならない.若干の煩雑さには理解を示さなくてはならないだろう.決して医師の特権性をこれまでの様に既得権として示したものであってはならないのである.しかし現在のところ介護保険制度,現状の日本の福祉,介護の実態の理解ということについて医師会員の理解はとても十分とは言えない.
 いま,介護支援専門員標準テキスト全二巻(財団法人長寿社会開発センター編)を手元に置いてこの十月に受験すべきかどうかまだ迷っている.今回の介護保険制度の成立過程をみて医師会や内科医会のありかたに無力感に近い疑問を持つことになった.鼻先のあんぱんには各医師会員がきわめて足腰が弱いこと(もちろん私もである)を再確認した.その集合体としての組織の力の弱さも十分理解できた.ただ介護保険そのものについては「医師の意見書」の部分の運用への繰り返しの提言のみが残された力になるはずである.いまからでも遅くはない.このために医師会や内科医会を活発な議論と現場の声の集積場所にしていきたいものである.しかしこれからの事を考える時,医師像が現在の不統一のイメージであり続ける限り新たな問題が出現してもその解決は困難だろう.目前のむしろ会員間とも言える利益調整の前に近未来に向けて統一した医師像がほしいのである.次の世紀を迎えようとしている今,医師像に多くのバリエーションが存在するのなら,そのことをふまえての有機的,統一的イメージが欲しいのである.徹底した議論を繰り返す中での会員の共通の問題意識を作り上げる事が大切だろう.医師連盟などの活動費を負担するだけで,一人一人がこのことについて考えずして,汗をかかずして,うまくいくはずがか−ではないか.2000年は間近である.