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古川 哲也 (小郡三井)
全く夏らしくなかった八月も最後の日、医師会長との約束を破るわけにもいかず、原稿用紙に向かい、さて何か書けることは?と想いを巡らすうちに、ほんの先頃、一周忌を迎えた中学、高校と同窓であった一人の友人のことに思い当たった。医学部に籍を置き研究生活を送っていた彼は、自分の出身大学の関連病院で膵臓癌のために亡くなった。四十一歳であった。
彼とは二年前の同窓会で、十年ぶりの再会を果たし、その時は、学生の頃と少しも変わらぬ、彼の飾り気のない朴訥とした様子が懐かしく、楽しい時のうちに旧交を温めることができた。
しかし、次に彼と会うことになったのは、入院していた彼を見舞った、病院の大部屋においてである。何を語ればよいものか分からかないまま、差し障りのない短い会話を交わし、やるせない気持ちで病院を後にした。彼の心のうちに踏み込むには、僕はあまりにその頃の彼を知らなすぎたからである。再度の訪問を躊躇しているうちに、彼の訃報が届いた。
結局、僕が彼にしてやれたことといえば、研究生活に明け暮れ、決して楽ではなかった経済状況を聞き及んだ一人の同級生が呼び掛けた激励のための基金に、わずかばかりの金額を振り込むことだけであった。求められれば出来るだけのことをするつもりではいたが、結局彼は僕に何も求めてこなかったし、後の話では、基金にも一切、手は付けられていなかったということである。
通夜の席で、奥さんが彼の生前の様子を語ってくれた。
彼が食欲の低下を自覚して、病院の消化器科を受診したのは、亡くなる一年前の夏のことであり、その時の検査では何ら異常は認められなかった。しかし、症状は悪化するばかりで、彼女はもう一度診察を受けるよう勧めたが、「皆忙しいとやから、あんまり煩らわせると気の毒やろう」と、彼は取り合わなかった。それでも、いよいよ何も食べられなくなるに至り、さすがの彼も、その秋に同じ科を再度受診した。そこで初めて膵臓癌が判明したときには、すでに手術の適応のない進行したものになっていた。
そんな話を淡々と語る彼女に、欠片の恨みがましさも感じることがなかったのは、恐らく、彼自身がそのような態度を周りに見せることがなかったからであろう。
彼が最後の時まで何を想い、夫婦の間にどのような会話があったのか知る由もないが、今でも強く印象に残り、忘れられない彼女の言葉がある。「彼が最期に言ってくれたんです。延命治療をしてもらってもいいぞ・・・、って」
延命治療というものに、意味があるとかないとかいう話ではない。当然、専門家同士である彼と主治医の間にあっては、延命治療の無意味さは語らずもがなであったはずであるし、そのことは、もと看護師であった彼女も十分承知していたに違いない。総てを踏まえた上で、まさに最期のとき、他ならぬ彼自身の口から出た言葉であったからこそ、彼女も心なしか愛おしそうに、誇らしげにこの話をしてくれたと思っている。 その言葉の壮絶なまでの優しさ、気高さのゆえに、堪え難かったであろう悲運にも拘わらず、僕が思い浮かべる彼は、いつも僅かの陰りもない満足げな微笑を浮かべている。
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