五十にしても惑う

鎌谷 直人(小郡三井)

 私は筑豊生まれの筑豊育ちです.物心ついたときには鋭くとがったボタ山の頂まで,トロッコが麓からボタを運んでは捨てていました.しかし小学校に通う頃には炭坑も斜陽の時を迎え,炭住と呼んでいた炭坑の労働者たちの長屋から小学校に通ってくる友達も,ほとんどが生活保護家庭児で,つぎはぎだらけの服を着ていました.また近くには被差別部落もあり,友達の半数は社会的にあまり恵まれてはいない人たちでした.そんな中に育ちましたから,いかに自分が幸福であるか,人は平等であるべきかを両親から得々と諭されました.
 父は往診のために自転車で山の麓まで行き,一時間かけて山登りをしていましたし,母は鍬で畑を耕し野菜を作っていました.私はといえば,小学生の頃からこんな便利の悪い,環境の劣悪な地から抜け出すことばかり考えていました.
 やがて大学受験期を迎え両親の意向に反し関東方面の大学ばかりに受験願書を出し,意気揚々と東京の建築学科に通いました.最初は見るもの聞くものすべて新鮮で都会地に住む自分に充分満足していましたが,しばらくすると,薄っペらな都会地の環境の不快さや生き甲斐についてのむなしさが心の大部分を占めるようになりました.両親に許しを請い,どうにか九州の地で医者になることができました.大学入学卒業,予備校入学,医学部入学卒業と随分と回り道をしたのです.
 先日妻とドライブがてら久しぶりに生まれ故郷の筑豊に行きました.道も家も学校もすべて変わっており,生まれ育った我が家も人手に渡り,ボタ山も木々に覆われ他の山と区別がつかなくなっていました.十年前他界した父の葬儀をふと思い出し,生前には気づかなかった父のすばらしい生き方について改めて思い起こされました.あの時は大勢の人たちが心から,「先生には本当にお世話になりました.」「これから病気になったらどうしよう.」と本気で惜しみ悲しんで下さいました.これだけ多くの人から慕われ頼りにされ地域の医療につくした父であったかと,その生き様に改めて頭が下がる思いでした.
 現在私は好むと好まざるとに関わらず200人からの職員を抱え,地域の医療のみに尽くした父とは対照的に,病院の経済的経営を常に意識しなければならない立場に置かれています.いったい何のために己は回り道をしてまでも医者になったのか,いやいや今の立場でも父とはちがったやり方で地域への貢献が出来るはずではないかと,心の葛藤をしながら迷っては立ち止まり考えては進む日々を送っています.