一般社団法人 小郡三井医師会

医傑 高松凌雲先生

高松凌雲先生

高松凌雲は1836年のクリスマスの日、今の小郡市古飯(黒岩医院の近くです)で高松家の三男として生まれました。
その42年前、杉田玄白が「解体新書」を完成し、32年前には華岡青洲が乳がん手術を行いました。時は幕末です。翌年には大塩平八郎が挙兵し、2年後には緒方洪庵が蘭学塾、適々斎塾を開いています。生まれた6年後には小郡の酒井義篤が久留米藩で始めての人体解剖を行っています。凌雲は一時久留米藩に仕官しましたが、医師を目指し上京することになります。凌雲24歳の時です。その翌年には桜田門外の変が起こります。世の中は混乱の極みに向かっていました。医学の先生である石川桜所の関係から、ひょんな事で徳川一橋家付きの医師となります。また、偶然が重なり一橋家の慶喜公が徳川15代将軍となり凌雲はその侍医となります。

パリ市立病院(HOTEL-DIEU 神の宿)

当時フランスはナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンの天下でした。そのもとで開催されたパリ万博の代表団のお付き医師として同道することになります。パリで見聞きしたものは後の凌雲の運命を変えました。今も現存するパリ市立病院(HOTEL-DIEU 神の宿)は当時から貧しい人々にも開放され、無料の施療を行っていました。その玄関には「自由・平等・友愛」と書かれていたのです。凌雲が強烈なカルチャーショックを受けたことは間違いありません。

 さて、1867年10月、一行がパリ滞在中に大政奉還が行われます。日本では戊辰戦争が鳥羽伏見の戦いで始まり、江戸城は開城を余儀なくされ、新政府への移行が進みます。急遽凌雲らは帰国します。帰国後、幕臣としての道を全うすべく、蝦夷地に幕臣の国を作ろうとした榎本武揚らに合流し、函館戦争に医師として参加します。そこで野戦病院 頭取となった凌雲は、戦傷者を敵味方を問わず治療しました。これが我が国最初の赤十字活動と言われる所以です。戊辰戦争が幕軍の敗北によって終了し、凌雲は幕臣として蟄居を命ぜられます。ところが、敵味方を問わず施療したことや高度な医学知識などにより、凌雲の評価は新政府になっても極めて高いものでした。生涯幕臣を通し、新政府での役職は全て断りましたが、彼は一、市井の医者としてパリでのHOTEL-DIEUの精神を実行に移します。この後生涯を通して、貧しい人々へ無料での治療を行う同愛社活動を続け、1916年凌雲は81歳の10月12日、病没します。小郡市古飯には我々医師会の先輩が関わって建立された高松凌雲生誕記念碑があります。幕臣としての一生であったので、歴史的評価を正当になされぬまま今に至った訳ですが、歴史小説家吉村昭著「夜明けの雷鳴」(2003年1月文春文庫にて再出版される)にもその偉業が書かれています。
 私達にとても真似できるものではありませんが、このような先達が同郷に生まれ、一時期の日本を動かし、今に医師のあり方の本質を伝えているのです。

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